増田通信より「ふ~ん なるほどねえ」324号 いつか、必ず、満開の桜の下で

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<最近の決意> いつか、必ず、満開の桜の下で
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「8月の最終週、9月の第1週、第2週と、3週続けて福島県内各地を巡った。
お邪魔したのは喜多方市、南会津町、白河市、富岡町、福島市、郡山市の6カ所。
各地の農業委員を対象にした研修会で講師を務めるための訪問である。
福島県内での講演回数は、これまで優に200回を超えているが、
富岡町で演壇に立つのは、これが初めてのこと。
もっともな話で、2011年の3.11からおよそ6年間に渡って、
富岡町は全町が「帰宅困難区域」に指定され、
誰一人、行き交う人がいない状態だったからだ。
現在も、すべての地域で指定が解除されたわけではなく、
依然として、放射線量の高い地域では居住が見合わせられている。
しかも、避難した住民のおよそ85%が今も町を離れたままだ。
私は研修会の前日に同町に入ったので、
その日と翌朝、クルマで町内のあちこちを見て回った。
目に入るのは、廃炉作業のための特殊な車両や、
除染土を運ぶ大型ダンプ。そして、それらを担う作業員たちばかり。
福島第一原発の廃炉は、2051年を目標に設定しているが、
実際のところ、目標通りにいかないだろうというのが大方の見立てである。
仮に30年後、あるいは40年後に廃炉作業が完了したところで、
震災前から建っていた家屋が維持できているとは到底思えないし、
そもそも震災を生き延びた方々の寿命も微妙なラインだ。
だから私は思う。
富岡町は、もう、元に戻ることはないと。
そのうえで、こうも思う。
震災や原発事故がなかったとしても、
時間の経過は、必ず古いものを駆逐していく。
どんな世界も、「元に戻る」ということあり得ないのだと。
であれば、廃炉後の地域のあり方を描くことしか選択肢はない。
もちろん、それは遠い将来の話だし、
果たして本当に廃炉が完了するかどうかもわからない。
それでも、青写真を描くべきだ。それがあればこそ、
逆算して、今や近い将来の町づくりを考えることができる。
◆◆◆
もう、ずいぶん前の話になるが、
NICeがまだ経済産業省の事業だった頃、つまり震災より以前の話。
郡山市で開催した頭脳交換会に、富岡町から駆けつけてくれた方がいた。
佐藤さんという、当時、62歳の熱血漢だった。
佐藤さんはNICeの活動にいたく共鳴してくれて、
「来年は富岡町で頭脳交換会を開催したい」とまで言ってくれた。
「富岡には『夜ノ森』という地区があり、そこの桜並木は日本一の美しさです。
だから、その季節に全国から富岡に集まってもらえたら嬉しい」と。
私も「ぜひ!」と応じた。
しかし、直後に発生した震災のせいで、その夢は吹き飛んだ。
それどころか、佐藤さんが生存しているのかどうかもわからず、
私はあの手この手で彼を探し、ようやく消息を掴み、
埼玉県に避難しているという彼と電話で話して、無事を喜び合った。
ただ、現地の惨状や佐藤さんの境遇を考えると、
「いつか必ず富岡で頭脳交換会をやりましょう」というセリフは、
とうとう最後まで口にすることができなかった。
あれから14年半。
佐藤さんが今もお元気かどうか、わからない。
ただ、やはり私は彼との約束を果たしたい。
富岡町を始めとする原発周辺の市町村、
さらには福島県と日本全国の将来に貢献するビジネスについて、
「夜ノ森」の満開の桜の下で、心ゆくまで語り合いたいと思う。
そんな小さな行動の積み重ねが、「被災地」の未来を開く一助になると思う。
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増田紀彦NICe代表理事が、毎月7日と14日(7と14で714(ナイス)!)に、
NICe正会員・協力会員・賛助会員、寄付者と公式サポーターの皆さんへ、
感謝と連帯を込めてお送りしている【NICe会員限定レター「ふ〜んなるほどねえ」スモールマガジン!増田通信】。
第324号(2025/9.16発行)より一部抜粋して掲載しました。
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