最新情報最新レポートNICeとはつながり力NICeとはSNS代表から講演取材依頼ユーザーログイン

地域NICe勉強会

第12回 NICe関西 交流会in心斎橋レポート



2012年1月8日(日)、大阪・心斎橋で、起業家・起業予定者・起業支援者がつながる“大交流会”「NICe関西 交流会in心斎橋」が開催された。大阪府内をはじめ、福井県、愛知県、滋賀県、京都府、兵庫県、奈良県、和歌山県、広島県など、中部・関西・中国地方のほか、東京都、神奈川県からNICe内外の総勢86名が結集した。プログラムはNICe代表理事の基調講演、宮城県南三陸町からゲストを招いての特別講演、関西の私たちに何ができるか「東北の復興」をテーマにしたワールドカフェ、そして懇親会ではマジックショーやライブなどもあり、2012年の幕開けに勢いを増す熱い大交流会となった。



■オープニング
司会進行を務める坂元ますみ氏が、昨年選ばれた漢字「絆」とNICeのつながり力について語り、プログラムを説明してスタート。



「雲のように軽く、霞のようにつかみどころがない男。その言葉は稲光りのように鋭い。……ハードルを上げておきました。ますますのりのり、増田紀彦です!」と、NICe代表理事を紹介した。


■第1部 基調講演

テーマ「ニッポン復興の年を、みんなの躍進の年に!」

一般社団法人起業支援ネットワークNICe 増田紀彦代表理事 


「みなさんと揃って新しい年を迎え、全国からこうして多くの仲間が集まってくれてますます力が湧いてきます。去年から大きく世の中が変わってきています。新年ということもあり、今年1年だけでなく、これからの時代のヒントとなるキーワードを本日は提供します。そのキーワードとご自身のお仕事、活動の接点を、ぜひ見つけていただきたいと思います」

●混迷を深める日本経済の現状と先行きを
 まずはしっかりと把握する


さっそく増田氏は、極めて厳しくなる2012年からの国民経済・国民生活と、その要因の関係図を示して解説を始めた。



「悪循環に悪循環を重ね、日本経済が弱まるプロセスに入ってきています。世界中が大変であり、世界経済を牽引していたアメリカが必死です。長年ドルが世界経済の基軸通貨となってきましたが、今やドルの信用性は低下。世界市場は通貨ブロックから通商ブロックへと変わってきています。そしてアメリカは世界で一番お金があって、信用できる国、日本に照準を合わせてきています。日本市場を射止めたいが、二国間の交渉では埒があかない。そこで、互助精神で始まったTPPに加盟し、日本にも加盟を勧めています。日本ではTPPが農業の問題のようにマスコミでクローズアップしていますが、アメリカは日本の農業に大きな関心があるわけではありません。関心があるのは保険、金融、投資です。特に外資に未開放なジャンルである、簡易保険と共済を狙っています。ここに日本人の資金が潤沢にあるからです。ここを開放してくれとアメリカは要求します。すでに外資の生命保険会社がずいぶん多く日本へ参入しています。さらに市場を開放すると、そのうち、アヒルの代わりに、ニワトリがCMに出てくるんじゃないでしょうか」



思わず会場内から笑い声が上がった。
しかし、めずらしく厳しい表情で増田氏は笑いを制した。「今は笑えますが、そのうち笑えなくなります」と。それだけ日本経済は、私たちの暮らしは、危機的な状況なのだ。

日本経済は内憂外患の様相なのだと話題を続けた。
では、関税を撤廃して何が起きるか。2つのルートで日本はピンチに陥るという。まずひとつめのルート。関税撤廃によりさらに海外低価格商品が増加する。そうなると競争力保持のために、国内生産の低価格化がまた加速し、デフレがさらに進行する。そうなると企業収入が悪化し、当然、人件費カット、業者カットへと連鎖する。そしてまた低所得者層が増加し、消費はさらに冷え込む。この悪循環ルートはすでに多くの人が把握している。

問題はもうひとつのルート、その後半だ。
デフレが進むと、円の実質金利が高騰し、円高がさらに拡大する。本来のデフレーションは、需要よりも供給が高くものが余っているから価値が下がることだ。しかし、昨年あのような大震災が起きた。普通の国ならばインフレになり、通貨は下がるはずだ。しかし逆に円高になった。物不足は一時的なものだった、供給力が衰えないほど、日本の生産能力の高さが世界に証明されたのだ。ますます円を買う動きが加速する。円高が進行し、輸出関連企業は海外へ逃避する。ここまでは多くの人が把握しているだろう。

問題は、この先だと増田氏は警告した。
海外へ逃避するのは輸出関連企業だけではない。増税も絡んで投資家や富裕層が日本を見切るのだ。そして日本で資金調達ができない上場企業は、上場の場を海外へ移し始めているという。企業も富裕層も海外へと脱出すれば、ますます国内景気は悪化し、雇用はさらに減少する。つまり貧乏な人だけの国になかねない。日本経済を牽引してきた大企業は生き残りをかけてますます必死になるだろうし、特定の企業は生き残れるだろう。が、国民経済は厳しくなる。では、どうするのか!


●急変する景色に幻惑されず、
自分の適性を見極め、お互いさまの精神で共同体を形成


「どうしようもないので、開き直りましょう。細かいことを言っても、しかたありません。長年守ってきた経済モデルは行き詰まっています。世の中の流れに幻惑されず、世の中がどう変わろうが、できないことはできない、できることしかできないのです。社会が求めるもの、得意なもの、喜ばれること、しっかり見極めて、自分が得意なことで提供できるものをアレンジしていくことです」

自分の適性・能力・志向を今一度確認すること。そのためには、自分が何者かを自覚すること。それは他者と多く関わることで明確になっていくという。他者のために貢献できる分野が明確になれば、さらに自分の適性能力が自覚でき、その分野を生かしてお互い様の精神で仲間のために働けば、仲間もまた働いてくれるのだと述べた。



「道徳観ではなく、人を押しのけて自分さえ良ければという人が栄えたためしはありません。人のネットワークとは、知り合いの集団ではなく、互いに補完し合う、取り引きできる、価値を交換し合える関係です。ぜひ自分が先ではなく、他者のメリットこそ先にありきで考えていく。そこで頑張ってあげれば、何倍もの価値と喜びを感じられるような経済が回ってきます。経済とは、お金と価値で回るものです。まず自分から働きかけなければダメです。関税撤廃や増税、復興特区に外資も参入してくるでしょう。大企業のお裾分けをもらうのもひとつの考えですが、それっておかしいよね? というアンチの流れが必ず出てきます。仲間同士で喜びを分かち合いながら、地道に稼いでいこうよと。その流れのヒントとなる事例を3つ話します。」


●2012年からのピンチを逆転するためのヒント1
岩手県普代村の防潮堤と水産加工業


最初に紹介したのは、三陸沿岸に位置する岩手県普代村の震災後のニュース画像だ。ここは十数メートルの津波に襲われ、漁港は大変な被害を受けた。が、死者はゼロ。住民を守ったのは、高さ15.5mの防潮堤と水門を手動で締めたという人的功績だという。この防潮堤は昭和43年に建造されている。その建設に尽力したのが、昭和22年から10期にわたり普代村の村長を務めた和村幸得氏だ。かつて普代村は、明治29年の大津波で302人、昭和8年の大津波でも137人が犠牲になっていた。だからどうしても、防潮堤が必要なのだと和村村長は訴え続けた。だが当時の費用で36億円。当然のことながら、村人からも県からも猛反対を喰らう。が、村長は折れなかった。過去15mの記録があるのだと、頑として譲らず、そして43年前に建造された防潮堤が、3月11日、村人の命を、村を守った。村内には地域の生産物である、豊かな海の幸を使って活動しようと、地産地消のレストランも多いという。これが何のヒントか。どう話がつながるのか。「お楽しみに」と言わんばかりに増田氏は次のヒントの画像を映し出すよう、スタッフに指示した。


●2012年からのピンチを逆転するためのヒント2
山口県周防大島町のジャム専門店と伝統農業


次に映し出したのは、美しい瀬戸内の風景が目の前に広がる手づくりジャム専門店「瀬戸内Jam’s Garden」。その経営者である松嶋氏の起業経緯と、商品化のさまざまな工夫、取り組みにより、地域の農家の生産意欲をどう高めたのか、それら功績の数々を紹介した。この周防大島にはかつて5万人が暮らしていたが、現在の島民数は2万人という。内陸と結ぶ橋ができ、ストロー現象が起きたのだ。しかし、今は逆転した。島民は減ったが、わざわざジャムを買いにくる観光客が増えたというのだ。




さらに、この松嶋氏を応援する仲間もいるという。そのひとり、大野圭司氏は、土木建設業の3代目。島の先端にある『なぎさ水族館』の管理・運営もしている。日本一小さいと思われるこの水族館は増田氏のお気に入りでもある。
「島に初めて道路をつくったのは大野さんのおじいさん。耐久性のある道路につくり替えたのはお父さん。大野さんは、『じいちゃんが1本目をつくった、親父が2本目をつくった。道路はもう必要ない。僕は、ここに人を通すのだ』という熱い男です。水族館の行き帰りに、必ずこのジャムズガーデンの前を通り、店を、島を、盛り上げているのです」と紹介した。


●2012年からのピンチを逆転するためのヒント3
長野県小布施町の修景と6次産業


3つめのヒントとして紹介したのは、長野県小布施町。増田氏は5年前に訪れているという。この町には古い酒屋さんがあり、その酒屋さんに合わせて町をつくり直したそうだ。“修景”、つまり古いものを残すのではなく、その町にあるべきものに合わせて町をつくり直しているのだ。

「これは何の建物でしょう?」
参加者にいくつか問いかけた。

そして、増田氏が正解を言うたび、会場からは
「えええー?」「ほう〜」と驚きの声が上がった。

一見して民家のようだが、それらは信用金庫の支店、新聞の販売所だという。外観からはわからない、商種を示す看板が出ていないから。大きな一枚の絵のように美しい修景を保つため、そこまで徹底しているのだ。

ここ小布施町は傾斜地が多く、平坦地の面積が狭い。ほかの長野県の町と同様に水がいいが、面積が狭いため、精密機械メーカーの工場などを誘致できなかった。法人税収入が少ない。名産である栗も安値で加工業者に売られるだけだった。儲かるのは加工する2次産業、それを販売する都市部などの3次産業ばかり。しかし今ではほとんど町中で加工し、町中で販売している。そして、今や年間観光客100万人を超える人気観光地となったのだ。

「今までの日本は、生産地、加工地、販売地が別々でした。消費人口が多いところで売れば売れる、川下に行くほど利益が厚いしくみで、農林漁村は利益をよそにもっていかれていました。しかし、小布施町は1次、2次、3次、そして修景の観光も加わり、ひとつの町で、国民経済ならぬ町民経済が回っているのです」


●2012年以降、9つのキーワードに注目を

「防潮堤が村を守りました。橋ができ道路を造りました。町ごとつくり直しました。3つの事例に共通していること。2012年のキーワードのひとつである1次産業。もうひとつ大事なのは土木建築です」と語りながら、増田氏は合計9つのキーワードを示した。

ぬくもり
一次産業
ローテク
地方
コミュニティ
挑戦・勇気
安心・安全
土木・建築
次代への投資


「人間が生きていくために、当たり前ですが、ひとつは生きがいややりがいがとても大事です。そしてもうひとつ、安心安全に暮らせるインフラが大事です。イキイキとして安心に暮らしていければ、こんな幸せなことはない。今まで、安心安全とか、いきがいとか、疑わずに生きてきました。あるいは生きがいなくても、インフラがしっかりしていれば、経済が回れば、生きていけると思っていたのではないでしょうか。しかし、大震災が起き、建物が壊れることもあます。また、この国には原発があり、そこが壊れたら安心も何もないことがわかりました。地震や事故がなくても、建造物は老朽化していきます。道路に対して『ありがとう』など言ったことはありませんよね。電車があったおかげで今日ここにみなさんも来ることができた。この店の床が抜けるなどとも思っていない。安心安全の土木建築がどれだけ大事であり、特に地方にとっては、決定的な影響力を持っているのか、それを3つの事例を通じて感じてもらえたと思います」

増田氏は9つのキーワードそれぞれを具体的に説明し、ぜひこの項目に取り組んでいる地域や企業に注目し、関わっていってほしいと訴えた。
「冒頭に言いましたが、国や大企業についていく流れもあるでしょう。ですが、国民みんなが幸せになろうと考えて動きだす流れも必ずあります。もし、その流れが来ないのなら、NICeで来させようと思っています」




●零細でも非力でも、額に汗することを厭わず、
仲間を思える人間らしいネットワークで、つながり力を強化


「ひとり一人が幸せになれる、お互いさまだと、まず相手を思う。それが幸せな経済活動ではないでしょうか。相手を叩いたり、足を引っ張ったり、だましたりする経済ではなく、互いに喜び合える経済にしたい。そのために、NICeはネットやリアルを提供しています。ネットで、『こういう気概と技術を持ってこんな仕事をしている』とお互いを知り、リアルで会って、自分にはない能力を互いに知り合い、『それじゃ一緒に○○ができるじゃないか』と。そういうビジネスができていくと思いますし、実際にすでに誕生しています。従来の経済モデルでなりふり構わず突き進む企業もあるでしょう。国は違う方向に行こうとするかもしれない。しかし、私たちは、お互いさま経済をつくるために、頑張っていくべきではないでしょうか。必ず、そういう流れが来ると私は思います。今年だけでは無理でも、2020年までには、安心して、仲良く楽しく、やりがいを持って生きがいを持って生きていけるように、大きな流れに切り替わっていくと思います。みなさんで力を合わせて、2012年から頑張っていきましょう!」




■特別講演

テーマ「ニュースには報道されない、被災地の現実とは」

ゲストスピーカー 内田智貴氏(宮城県南三陸町)
インタビュアー 永山 仁氏




永山氏/NICeは「つながり力で、日本経済と地域社会の未来を拓く!」を合言葉にしています。日本全国に散らばった仲間がつながり、お互いさま精神で、地域を盛り上げていこうと。そういう活動の一環として、震災復興支援にも取り組んでいます。私も南三陸町へ行ったご縁で知り合い、今日このために宮城県南三陸町から内田智貴さんが来てくださいました。現地は今も依然厳しい状態ですが、報道では風化し始めています。内田さんは兄弟で飲食店を経営なさっていて、ご自宅も店舗も被災し、今は仮設住宅に暮らしていらっしゃいます。自ら被災者でありながら、避難所で最大時600名もの炊出しを長く担当され、そして今も物資を配るなど支援活動を続けていらっしゃいます。今日はみなさんの前でお話しくださるようお越しいただきました。

内田氏/ありがとうございます。よろしくお願いします。

まず最初に、YouTubeにアップされている、志津川(しづがわ)高校から撮影した津波当時の様子を一部上映した。



永山氏
/志津川高校、津波、でネット検索していただければ、この映像をご覧になれますのでぜひ見てください。5分29秒のわずかな時間に、家も車も町も、津波に流された様子が見えます。さっそくですが内田さん、当時の様子をお話しください。

内田氏/飲食店を経営していまして、当日はお昼過ぎにお風呂に入ろうかなと思った時に地震が来ました。お店を見に行ったら、店内はごちゃごちゃになっていて。何年か前から地震はありましたが、まさか津波が来るとは思ってもいませんでした。そうしたら、あの放送、職員の遠藤未希さんが最期まで放送を続けた、あの放送が聞こえて。最初は、津波警報ですと。それが、予想は6m、次は10mと。大津波警報です避難してくださいという言葉を最後に、未希ちゃんは流されたわけですが。

その時、自分は志津川高校の麓にある実家に帰っていました。50年前のチリ地震の時には、うちの前までしか津波が来なかったそうです。あのYouTubeの映像で、線路が津波に飲まれる時間まで、のんびり実家にいたのですが、未希ちゃんの放送が聞こえて、すぐに高台にある志津川高校に避難しました。その途中の坂の右下に、老人ホームがあるので、80段の階段を何度も駆け下り登っては救助しました。3、4回繰り返したでしょうか。

夜になってからは、寒かったので、女性たちは校内のカーテンにくるまっていました。おとんたちは落ち着かなくて。余震が来るし、その余震でまだ波が来ていました。その度に、下の方から悲鳴が聞こえる。暗くて見えないけれど、それが全部、翌日には遺体になっていました。あの晩は合計17回の波が来ました。そういう夜を過ごしました。

人生で初めて電気が全部消えたので、星がスゴく近く見に見えて。あんなきれいな星を見たことはありませんでした。なんか夢のような、夢というか、2週間ぐらいは起きるたびに夢だったらいいのにな、という感じで過ごしていました。



翌日からは、この身体なんで(巨体を示し)目立つもので、すぐに手招きされるんです。で、翌日からずっと、遺体の搬送をしていました。前日に救助した老人ホームの方々は一晩保ちませんでした。布切れかブルーシートで搬送しました。

翌日、「9体あるから」と言われて、瓦礫をかき分けてあの老人ホームに向かいました。確かに、ホームの方は9体でしたが、実際には40体ありました。津波で流された方々でしょう。その作業を4日間くらい、兄や男性陣と続けました。

そして3月12日に、自分のものがひとつだけ見つかったのです。調理師免許です。高校の下まで流されてきたようでした。これ、いい話なので、よくマスコミに使ってもらいます(笑)。それで、炊き出しやってくれますか?ということになり、それから9月5日くらいまで、毎日やりました。



永山氏/朝昼晩? 毎日600人分ですか?

内田氏/はい、朝昼晩です。最初の頃は3月だったので陽も短く、夕方16時半くらいには暗くなるので、それまでには食べ終えるようにし、みなさんは18時頃には寝ていました。俺たちは、朝4時半ぐらいには起きて、朝つくって、次に昼つくって、夕食つくっていました。

永山氏
/600人分の食材はどのように調達したのですか?

内田氏/最初は……。こう言うと、家も流されて何を言っているのかとみなさん思うでしょうが、アワビとかを食べていました。冷凍倉庫に電気が通じませんでしたから。ほかにも、めかぶ、かき、たこ。炊き出し3日目くらいには、アワビの半身とアワビ汁を出しました。みんな泣きながら食べていました。米軍の物資もありました。ご飯粒の形をしたパスタとか。水は高校のプールの水を沸騰させて使用しました。雨水を貯めたり、雪を溶かしたりして使うこともありました。自衛隊が救助ではなく救援に来たのは震災から2週間後ぐらいです。それまでは、毎日どこかに落ちているものを拾い集めては、使っていました。

どの町の行政もそうなのでしょうが、どこもマニュアル通りなのでしょう。ある日、保健福祉課の方が避難所に来て、「(栄養)バランスは採れないのですか?」と。割り箸も紙コップも使い古してボロボロな状態だというのにです。高校にはなぜか物資が来ませんでした。小さな町なので、役場職員の誰々がいるところへ回っていきました。高校には物資は届きませんでしたが、いろいろな人のつながりで届くようになりました。



永山氏/物資などが足りてきたな、困らなくなったと実感したのはいつですか?

内田氏/5月の末ぐらいです。いろいろな人が炊き出しに来てくれた残りの調理料などをもらい、貯めては使っていました。

永山氏/各地からボランティアの方がいらしたと思いますが、どういう地域でしたか?

内田氏/関東は千葉県が多かったです。あとは神戸、大阪。阪神淡路大震災を経験したという方が多かったです。

永山氏/これまでいろいろ話しを聞いて、ニュースで聞けないなと思った印象的なこととして、仮設住宅のことがありました。少しずつ建てられ、避難所から順次引っ越されたそうですが。

内田氏/うちの家族が7月の末に当選したと役所から電話連絡を受けたのです。俺らの避難所(志津川高校)には60世帯くらい避難していて、当然、目の前でつくられていく仮設に入りたいと思っていました。でも、志津川高校につくった仮設住宅には現在、町の有力者が入居しています。そこに避難していた60世帯の中で入れたのはたった1組だけ。炊き出しているメンバーは誰も当たりませんでした。それでも、うちは別の場所は当たったと連絡があって。ああ良かったと避難所のみんなも拍手してくれて、内田さんたちこれまで頑張ってくれたから!と喜んでくれました。それが、1時間後にまた電話があって、「なかったことにしてくれ」と。



役所の臨時職員が、抽選で外れたのを間違って電話してしまったと言うんです。また電話で、第2希望は当たりましたと。でも、それも間違えだったと、また連絡が来ました。避難所のみんなも怒ってくれて、「町長に謝りに来させろ!」と。そう言いましたが来ず、副町長が避難所に来ました。その頃、ちょうど自分にテレビ取材の予定も入っていたので、そのことを言ったら、翌日になって町長が謝りに来ました。「建設課のミスだから」と。しかも町長は、「こことこことここに仮設がある、好きなところを選べ」と言うんです。そんなの選べませんよ。騒いだ者勝ちみたいでイヤですから。それで結局、今は海に近くて寒い仮設住宅にひとりで住んでいます。親と兄は40分離れた隣町の仮設で生活しています。家族別々です。



永山氏/内田さんは今も変わらず、『さかなのみうら』さんとの物資プロジェクトに関わっていて、各地に点在している仮設住宅に物資を配られています。ご自身の将来の身も案じていると思うのですが、自分よりもと、今も活動しています。何が内田さんをそうさせるのでしょうか?

内田氏/避難所では中心人物のひとりだったので、最初は物資の仕分けなどをやっていました。1,000世帯に水を配ったりもしました。これが、宮城県の災害法で1日の水配給料というのがあるらしく、16パレット(約15トン)とスゴい量の水が入って来ていました。高校では飲みきれませんから、配りに行ったのです。そうしたら、なぜ配るのかと役所から怒られたのです。物資を配れば自立を遅らせる、と。そう言いますが、本当に困っている人がいるんですよ。見なし仮設、借家の人は、まったく物資をもらっていないし、配給にも来ない。自宅が残っている人にも来ない。その人たちは避難所に、味噌や米などいろんなもの提供してくれていたのに、です。そういう人にも配ってはダメだと、そして自分たちも配らない。そんなバカな話はないと。



永山氏/こちら関西では、被災地はある程度落ち着いたのでしょうという話も聞きますが、実際は違います。NICeの仲間の長沼さんや内田さんと一緒に南三陸町へ行き、その様子をフェイスブックやツイッターに画像付きでアップしたら、スゴく反響が大きかった。「まだそんな状態なのか?」と。忘れないこと、伝えていくこと、私たちが続けていく大事なことだと思いました。内田さんから関西のみなさんへ、要望、希望、メッセージをお願いします。

内田氏/ぶっちゃけ、物資よりもお金です。それと、忘れないでいて欲しい。家もない、寒い北国です。来てくれて、見てくれて、つながって、メールしてくれるのが嬉しいです。忘れていないよと、どこかで酔っ払っていてもメールをくれるのが嬉しいです。

永山氏/では質疑応答に入ります、ご質問どうそ。

参加者/南三陸町の産業は漁業だと思うのですが、もともとはどのような町ですか?
内田氏/兵庫県の明石に似ています。タコが有名で、銀シャケ、ワカメ、海の産業です。
参加者/工業は?
内田氏/ないですね。水産と林業です。リアス式海岸なので海水浴場はないですが、眺めはきれいなので観光業もあります。



参加者/行政の対応はわかりました。マスコミはどうですか?
内田氏/まぁ、このルックスなので(笑)。笑顔で写真をと言われると、こんなふくよかな体系では、そんなに困っていないと思われるのではないかと心配でした。

参加者/行政はその後変わりましたか?
内田氏/いじわるしてきます。先日大きな物資倉庫として廃校になった体育館を借りました。そこに県の余剰物資を1週間かけて搬入したのです。ところが今度はそこを1週間であけろと。物資は自立を送らせるからとの理由です。
参加者/行政と被災者の温度差はありますよね。接点は見つけられませんか?
内田氏/被災してすぐにいろんなルールが定められましたよね。町民が知る前に、行政の人たちは知るわけです。いいところ、便利なところへ引っ越していきました。

永山氏/この後のワールドカフェで、私たち関西の人ができることについて話し合っていきます。懇親会にも内田さんは参加されますので、いろいろお話しして下ったらと思います。
内田氏/今日はみなさんありがとうございました。





■第3部 ワールドカフェ

テーマ「被災地とどのようにつながっていくかを考える」
 〜私たちは、東北の復興にどのように関わっていけるのか〜


 

司会/内田雅康氏

司会進行役の内田氏が、ワールドカフェのルールを説明。
ルールは以下の通り。
・テーブル上に広げられた模造紙には、思ったことを自由に書く
・トーキングオブジェという玩具を手にした人が話す。ほかのメンバーは聞くことに徹する
・議論ではなく対話が目的、カフェのように気軽に語り合おう
・結論を求めるのではなく、互いにどう思っているか、感じているかを気軽に話し、聞く。
・ラウンドごとにテーブルを換えて、前のラウンドではこういう話が出たと伝えていく


●1ラウンド「私と東北とのつながり」について話し合おう
東北のイメージ、関わり、震災について思うことなど
筆者が参加したテーブルでの意見
・イメージ/
寒いところ、田舎、厳しいところ、リアス式海岸、雪国、集団疎開、温泉、人件費が安い、意外とアメリカに近い、水がいい、最先端企業が多い、昔の藩が違うせいか地域ごとの対立がある
・関わり、震災について思うこと/
 ・縁もゆかりもないと思っていたが仕事先の親族が東北で仕事がストップした
 ・タバコやビールの銘柄が減った、供給量も減った
  何がどこで生産されているのか初めて知った
 ・仕事の納期が変わった、仕事がなくなった
 ・震災後1週間後まで連絡が取れずに心配だった
 ・行かなくちゃと感じた





●2ラウンド「私たちにできることは?」
筆者が参加したテーブルでの意見
・ボランティアも未経験者が多く、準備なく行くのは迷惑。なので、その調整が必要だと痛感した
・ミスマッチの物資配送を防ぐ方法があるのではないか
・現地情報を誰が発信しているのか、それがいつの情報なのか、信憑性が大事だと思う
・子どもたちにあえて映像を見せた。なにも言わずに見せたら、「家族って大事だね」とポツッと言った
 こういう伝え方もあるのだと思ったし、伝えていくことが大事だと思う
・2月オープンを目指してWebで頒布会をスタートさせる。自分にとってもビジネスであり、被災地の自立のお手伝いにも役立つ方法を考えた
・今、必要なもの。今どこへ、誰がその場所へ届けるのか。トータルなオペレーションが重要だと思う





●第3ラウンド「復興のために何をどのようにすればいいのか」
筆者が参加したテーブルでの意見
・関西は震災の経験者が多い。長いスパンで取り組む大切さを伝授できるのでは
・歴史的に振り返っても、もう一度同じ町を再生するのではなく、新設するというスタンスで。
 そのスタンスが明確にあるところ、支援が見えるところへ、援助したい
・物資はある、が、届かない。経済が回らない。神戸は経済圏だった分、政府も大企業も復興に注力したが、神戸と違い、東北圏は遅い。だからこそ、小さな支援が必要であり、小さな経済が東北で回るようなサポートが必要。
・小さな経済がその地域でも回るよう、地域経済、中小零細、個人事業主に知恵や情報を提供したい






●自薦他薦発表

・福島県内に住む人を関西エリアで募集してはどうか。4万人が県外に出たとも言われている、戻りたいけれど戻れない人、あえて他の地域で頑張ろうと決めた人もいる。そういう意志を尊重しないといけないと思う。一緒に地域を創っていこうという意識ある人を被災地に募集するのもひとつだと思う
・行っても役に立つのかと躊躇するが、いざ行ってみたらありがとうと。行ってみたら何ができるかわかるのではないかと思う。例えば、物資を関西へ持ってきて売る。そういう現金商売でもサポートできるのではないか。2月11日のNICe大宴会in福島へまず行こう。




●メッセージタイム

●電話により、福島県郡山市に暮らす武田悦江氏から。インタビュー記事をまとめた
『福島県民23人の声 3.11大震災と原発を乗り越えて』(歴史春秋社出版)の紹介、
震災当時のこと、福島のことを語っていただいた。



●NICeの増田紀彦代表理事から、2月11日に福島市で開催する「2.11 NICe大宴会in福島」に関してアピール。自動車に乗り合って来てくれた場合に、交通費はNICeが支給すること、産品販売タイム、屋台村での交流などプログラムを説明。去年4万人が県外へ移住し、4月の切り替えにまた人口が減ると懸念されている。ぜひ関西から、他地域から多くの人が集まって下さるようお願いしますと述べた。
詳細はこちらご参照「2.11NICe大宴会in福島」http://www.nice.or.jp/archives/7662

●3月17・18日開催の「第13回NICe全国定例会in敦賀」実行委員長・瀧波裕幸氏、実行委員の井居義晴氏、リアル活動担当理事・小林京子氏が、3月17・18日は福井県敦賀で会いましょうと呼びかけた。



■懇親会

井居義晴氏の乾杯の音頭で懇親会が幕開け!


















■NICe関西委員長・長沼実侑紀氏から一言

「まずはたくさんの方に参加していただき感謝しています。普段なかなか会えない人にも会えて本当に嬉しかったです。また実行委員のみなさんの素晴らしい動きに、ただただ……感激しています。“100人とつながる”をテーマに、関西が一気にまとまり、各々が自分のできるることを見つけて担当してくれるようになりました。

南三陸町のともちゃん(内田さん)を呼びたい! 被災者の生の声を、TVなどのメディアを通してではなく、直接会って聞いて欲しいと考えてから、あっという間でした。

当日はたくさんの実行委員が動いてくれていましたので、私は参加者として加わることで、参加者の視点や参加者の声を直接、聞き取ることができました。この成果や教訓を、今後のNICe関西の取組みに活かしたいと思います。参加いただいたみなさん、ありがとうございます」

撮影/北出佳和氏
ustream配信撮影/目次哲也氏
取材・文/岡部 恵

コンテンツ