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第15回NICe全国定例会in和歌山 第1部 基調講演レポート



  

  

2012年9月8日(土)、「みんなの知恵の結晶で和歌山をもっと盛り上げよう!〜10年後の常識は、みんなのアイデアから〜」をテーマに、NICe主催、和歌山市、ニュース和歌山後援により、第15回NICe全国定例会in和歌山が開催された。参加者は、地元和歌山県を中心に、東京都、神奈川県、福井県、愛知県、三重県、滋賀県、京都府、大阪府、兵庫県、そして最遠方は秋田県からと、これまでのNICe全国定例会では最多となる89名が結集。さらにUstrem配信も行われ、全国各地のNICeメンバーもネットを通じて視聴に参加した。プログラムは、NICeの増田紀彦代表理事の基調講演、参加者全員の頭脳と頭脳をかけあわせるNICe頭脳交換会、事業紹介と課題発表により多方面からアドバイスを得られる“起業家お助けコーナー”、事業や夢を語るPRコーナー、そして昨年9月に発生した台風12号により甚大な被害を受けた県南部・紀南の現状報告など、4時間を超える熱い5部構成。その様子は後日、和歌山特報の記事にも掲載された(参照)。

5部構成のプログラムのうち、第1部・NICe増田紀彦代表理事による基調講演をこちらにレポート。




■第1部 基調講演



一般社団法人起業支援ネットワークNICe 増田紀彦代表理事による基調講演のテーマは、
「つながり力で紀州の不・負・普を富に転化しよう!〜飛躍のタネは、地元の中に眠っている〜」。

「今日の後半は、みなさんにも脳みそにびっしり汗をかいていただきます。そのためのヒントになるようなお話をこれからさせていただきます。それも一方的に話を聞いていただくだけでなく、私から質問をさせていただきますので、一緒に盛り上げていただければと思います」と、さっそく講演テーマの説明から語り始めた。

 

「どの地域にも、どの町にも。どの企業にも、自慢できるものがあります。一方で、だめだよな、普通だよな。というものがあります。でも、違う目で見てみれば、『それはすごいんじゃないか!』というものも眠っていると考えています。モノの見方ひとつで、不要なもの、負けているもの、普通なものが、むしろ宝物に変わっていく。そういう視点で、ダメだと思っていたものを宝物へ変えていった事例を紹介していきます。

私の話の後に、ゲストスピーカーとして『ル・パティシエミキ』のオーナーシェフ三鬼恵寿さんとともに、和歌山の話をする予定です。その時にもたくさんの和歌山の情報が出てきます。世界に誇れるものもあるのですが、反面、ワースト情報もあります。それらをどのように見方を変えていくのか。三鬼さんと話していこうと思います。ところで今朝、テレビを観た方はいますか?」と、会場に声をかけると、数名が挙手した。

実はこの日の朝、偶然にも、大阪朝日放送の番組「LIFE〜夢のカタチ〜」で、
三鬼恵寿氏のドキュメンタリーが放映されたのだった。

     

それは、的場農園という果実農家と協力し、収穫前に取り除かれてしまう摘果みかんを生かし、試行錯誤の末に素晴らしい新商品を誕生させた三鬼市の取り組みを、ドキュメンタリーで追った番組だった。今朝この番組を見たという増田氏は、やや興奮気味に番組の概要を説明した。そして、次にNICeについて語り始めた。この日の参加者のうち半数以上はNICeを初めて知る方だった。

「NICeはNational Incubation Center、その略称でNICe(ナイス)と呼んでいます。ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために、といいますが、NICeのNは、Nationalです。あえてローカルではなく、ナショナルと謳っています。日本中、どこも一定の地域内には素晴らしいものがありますが、それを十二分に育てるには、一定の地域、ローカルの中だけでは弱いのです。

たとえば、和歌山の由良に頑張っている企業があるとします。その企業を生かせる特許を、広島の人が持っているかもしれない。あるいは、応援したい人が東京に、沖縄にいるかもしれない。でも、小さなベンチャー企業のことを知る機会はほとんどないのが実情です。そのために、小さな芽が大きく育たず、つぶれてしまうことが多々あります。これが大企業であれば、新聞やテレビが報道してくれますが、小さな活動や小さくても頑張っている企業の情報は、地域外へは届きません。それを、インターネットを使って、互いに知り合い、互いに持っている経営資源を出し合おうということで、NICeは平成19年に経産省が発足した事業でした。しかし、国の予算というのは3年、長くて5年で終わってしまいます。この取り組みも3年で終わりました。ちょうど政権交代も起き、事業仕分けで各省庁はこれまでやって来たたくさんの事業を縮小した時期です。

その3年間で、数千万円を使って立派なSNSをつくっていたのですが、全部クローズしてしまいました。当時は5000人以上もの全国の起業家、経営者、支援者がNICeのSNSで情報交換をしていました。それが、一夜にして閉じられたのです。『これはもったいない! こんなことでいいのか!』と、一念発起しました。当時は国の委託で私がリーダーをしていましたが、この活動を停めてはいけない!と、仲間とともに私財を投じて平成23年から民営化したのが今のNICeです。多くの方の支援協力をいただき、新しいNICeとして活動を始めました。

今年の3月には福井県敦賀市で、5月には北海道の帯広市で、NICe全国定例会を開催しました。そして、ここ和歌山で開催することは私の念願でもありました」



増田氏は、自身の名前の“紀彦”の意味を説明し、和歌山県日高郡川辺町(県中部に位置する日高川町) 生まれだと語った。命名したのは祖父。いずれ和歌山から出てしまうだろうが、それでも、和歌山の人間であることを忘れないでほしいという思いが込められているという。そして実際に現在は東京に暮らしているものの、個人的にはやはり和歌山への思いは格別。この場に立てることが幸せであり、同時に、全国各地の仲間の知恵を結集し、力になれる会となるよう努めたいと意気込みを述べた。


そして、“つながり力”について語り始めた。
「不・負・普を富に転化する。そのために必要なことに、“つながり力”というものがあります。さきほど大橋市長が、NICeの活動を実にご理解いただいて、詳しく説明くださいましたが、この“つながり力”が今の時代に必要な武器です。

知恵はもちろん大事です。知恵が不・負・普を富にひっくり返すのですが、この知恵を生み出すのに、ひとりでうーんうーんと考えていてもなかなか出てはきません。人間はそもそも異なる者ですが、自分とはまったく異なる環境の人、条件の人、考えの人との人とのコミュニケーションにより、考えのキャッチボールのくり返しの中から、いい知恵が生まれてきます。

“つながり力”とは、むしろ、同じ者同士や似た者同士が仲良くするのではなく、十人十色というように、違う人間が、違うからこその資源を生かし合って、AとBを足したり掛け合わせたりすることで、新しい資源を生み出す。そういう力を、“つながり力”と呼んでいます」



プロジェクターには、配布資料に記された大きな文字が映し出されていた。今日のこの会で、いやこの時だけに限らず、“つながり力”の認識をぜひ共有し、それぞれに実践してほしい、という増田氏の強い気持ちが込められている。映し出された文章の一部が、さらに赤色で強調されていた。


【最初に、つながり力とは何か?】



「つながり力」とは、
自らの利益追求のみに終始せず、
他者の利益を優先し、計画し、
追求することにより、自己の強みの発見と、
自己の成長機会とを実現しようとする人々が、
あらゆる「境」や「際」を越え、
情報や知恵を共有・循環させることで、
経済活動や地域社会に、
人間的な喜びを取り戻していく力のこと。



このワンセンスを一行ずつ、解説した。
「自分の利益よりも、むしろ相手の利益を優先する。これは偽善者ということではありません。互いを知らないような、わからないような間柄でも、フッと言った意見に知恵がたくさん含まれています。当事者よりも、傍から見た人のほうが全体を見通せることがあるという意味の“傍目八目”ということが、実にたくさんあります。さらには、自分では大した意見・知識ではないけれど、ということが、意外にも相手にメリットを与えることも多くあります。と同時に、それを言った本人も驚くことがあるのです。自分では知らなかっただけで、意識していなかっただけで、『自分って役に立つんだな!』と気が付ける。資源と気付いていない自分の資源に気が付くことで、自分の可能性がまた広がるのです。このように他人に役立とうとすることで、相手のみならず自分もまた成長ができる。それも“つながり力”なのです。

巨万の資金を投資せずとも、他者と交わることで、もっともっといい知恵が出し合える。まさに産業を発展させるアイデアが生まれてくるのです。それが“つながり力”です。

同じ日本人であっても、業種が違うと話が合わない、地域が違うと話が合わない、世代が違うと話が合わないとよく言われます。境界がある、壁がある、際がある。なぜ、そんな境界線だらけの日本になってしまったのでしょうか。その理由である前提をまずお話しし、その際を超えることで、“つながり力”で、不・負・普を富に転化した実例をお話しします」


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なぜ、「境」や「際」だらけの日本になってしまったのか。
その理由は、第2時世界大戦後の世界経済のあり方と、その中に置ける日本のポジションが要因だと述べた。増田氏が語った内容を簡潔にするとこうなる。

まず、世界経済のあり方と変貌について。第2次世界大戦後、金本位制を唯一堅持できた国はアメリカだ。世界経済はドルを介して回り続けた。が、世界を牽引して来たそのアメリカが、1971年に突然、ドルと金の交換停止を発表する、いわゆるニクソン・ショックと呼ばれるものだ。世界経済は大混乱に陥り、ドルは変動相場制となり、刷り過ぎたドルは資産経済へと投入されていった。ドルの信用は今もさらに落ち続けている。
一方、日本は敗戦国ながら、戦後30年後には経済大国といわれるまでの驚異的な復興を遂げた。当時の為替レートは1ドル=360円。日本にとっては驚異的な好条件だ。この好条件をフルに活用し、日本は対米輸出に向けて、国を挙げて加工貿易に邁進した。生産拠点となる大規模な工場や倉庫を海沿いに集中させ、港湾や交通網を整備し、全国各地から労働力を都市部へ注ぎ込んだ。若い働き手がいなくなった地方は、一次産業と建設業だけが主な産業となり、その穴うめ分は、交付税というかたちで地方へ戻され、公共工事が盛んに行われた。こうして、選択と集中により、日本はゾーニングされ、地域ごとに色分けされ、同地域には同業種の人だけが暮らすという偏った国が出来上がっていった。この対米輸出の加工貿易という勝利の方程式で、日本は高度成長を実現した。
「が!」と、増田氏は言葉を続けた。
前記したとおり、日本のお得意さまだったアメリカは今や消費大国の名を返上し、円高傾向は収まりそうもない。つまり日本の勝利の方程式の大前提である好条件が、もう完全に崩壊している。しかし、偏った日本の国土という副産物は残ったまま。

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「都市部に人を集め、地方はそのお裾分けでやっていれば安心、という時代ではなくなりました。しかし、一定の地域の中に同じ職業の人ばかりが暮らす国土になっています。すっかり色分けされてしまっています。自分のまわりに、いろんな職業の人が居ないというのが今の日本の状況です。効率重視で色分けしてしまった日本を、もう一度シャッフルして、“境”や“際”を超えて、一緒に知恵を出し合い、伸びる芽を見つけ出すための取り組みが大事だと考えています。

だから“つながり力”なのです。戦後の日本が選択集中してきた加工貿易の終焉とともに、もう一度、あらゆる業種の人が、業種や地域や年齢や仕事を超えて知恵を出し合わないと、この国の経済の次の伸びは来ません。全国規模であらゆる社会の際を超えるのだと、そういう認識でNICeは取り組んでいます。さっそく事例を紹介しましょう。まさに業種を、地域を、世代を超えて新しい事業に取り組んでいる事例です」


“つながり力”発揮事例1
漁村の「不」・「負」・「普」を「富」に転換した
和歌山県すさみ町/穫る漁業から観せる漁業へ


 

最初に紹介した事例は、和歌山県の南部に位置するすさみ町。プロジェクターに航空写真や漁港の様子などを映しながら、町の概要と特徴を説明した。和歌山県の森林面積割合は77%と、他の都道府県に比べても高く、ここすさみ町もまた、いかにも紀南らしい平地が少ない漁業の町だという。主な産業は漁業で、有名な産物『すさみケンケン鰹』は地域ブランドになっており、日本で一番品質のいい鰹だと増田氏は紹介した。市場の写真を見ると、普通は寝かせて並べる鰹が、みんな逆さまに立てている! 独特の漁法、獲ってすぐに血抜きをし、氷を貼った塩水に頭から縦に入れる丁寧な管理により、「食感がむちむちしていて、非常に美味しいんです!」とのこと。ほかにも伊勢エビやスルメなど、黒潮の恩恵を受けている町だという。

「今までは、です」と、増田氏は言葉を切った。

「みなさんの中に漁業関係の方いますか? 少ないですよね。経済水域が厳しくなってきていますし、資源の枯渇という問題もあります。すさみも漁獲量は減っていて、鰹は10年前の半分と聞いています。また、船の燃料である原油が上がれば漁に出るだけでも赤字です。仕事もきつく、高齢化と後継者問題も深刻です。漁師さんの所得も減り、漁協を維持するのも大変です。これはすさみ町や和歌山県だけの話でなく、日本中の漁業関係者にとって深刻な問題です。そこで各地で、漁へ出て獲る漁業から、育てる漁業へと、養殖へと変わってきています。が、そのコストも大変ですし、環境との兼ね合いなど、課題は少なくありません。ところが、すさみのみなさんが考えたのは、獲る漁業から育てる漁業ではなく、観せる漁業へ、なのです」

観せる漁業とは? それはダイビングだ。すさみの海底の地形の面白さは日本有数とのことで、今や10万人を越す人気のダイビングスポットになっているという。だが当時は誰も潜っていなかった。すさみだけでなく、日本中の海で漁師とダイバーは敵対関係にあった。海に潜って見るだけ、と漁師は思わない。海に潜るのは、魚介類を盗むためと思われていたのだ。また、よそ者が自分たちの愛する海に潜ることは、冒涜にも近い許せない行為だった。

 

「しかし、この漁協はダイビングを始めました。遠くまで漁へは行けなくなった年配の漁師さんが、ダイバーたちをダイブポイントまで連れて行く、というサービスを始めたのです。熟練の漁師さんたちは、自分たちの海を熟知していますから。さらに海の中に郵便ポストも置き、防水性の葉書を投函できるというサービスも人気です。ダイビングができない人や子ども向けに、マンボーと一緒にシュノーケリングも楽しめるアトラクションもあります。漁港にクラブハウスも造りました。51%を漁協が出資し、49%を漁師や市民が出資し、ノアすさみという会社を設立しました。収益は漁師さんに均等に分配しています。ご高齢で遠くまで行けない漁師さんは、海を良く知っている町の資源です。ダイバーを案内しては喜ばれ、安定収入とやりがいが生まれています。残っている船のローンも返済できます。郵便局長も協力して、法律で海中にポストを設置してはいけない法はない、ということでOKとしました。つぶれたドライブインを、水族館にしています。なんと、エビとカニの水族館です。ただの普通の水槽の回りをベニアでくり抜いて、レンガ風の絵を描いています。ここのキャッチフレーズは『日本一貧乏な水族館』です(笑)。でもアイデアが豊富で、名誉館長が、あの海老名香葉子さん。シャレも入れています。まさに、不・負・普を生かしています。さて、なぜ、こんなことができたのか?です」

それは、今から20年ほど前。日本中で漁師とダイバーが敵対していた時に、ここでダイビングを始めようと言い出した人物が居たからだ。北海道の生まれの松田猛司氏。すさみは、松田氏の奥さまの故郷だ。

松田氏はかつてレジャー開発の企業に勤めていた。だが、いくら海外でリゾートを開発しても、その収益は外資企業のものであり、地元の人は儲からない。外へ利益が行ってしまうそんな開発でいいのか、住民無視の開発はもうしたくない、と会社を退職。さらに、自身の故郷である北海道は炭鉱町で、産業が衰退し、すでに町ごとなくなってしまっていたという。「貢献したい故郷がない」。そんな時に、奥さまの故郷・すさみで、「リゾート開発をしていたのであれば、何か地域活性化にいい案はないか」と、漁師から相談を持ちかけられたのがそもそもの始まりだったという。

「松田さんは、自分に何か出来るならばと考えたのです。その当時はまだ東京に住んでいましたが、何度も何度もすさみへ通い、ダイブポイントを調べては、漁師さんたちに構想を説明しました。ですが当時、ダイバーは漁師にとっての敵です。猛反対する漁師さんもいました。ですが漁協の組合長らとともに数年かけて説得し続け、とうとう漁師さんたちや市民と一緒にこの事業をつくったのです。ここに、つながり力があるのです」

危機意識がある、なんとかしたいという地域の思いと、そこに応えたいと、まったく違う視点を持ってきた松田氏との出会い。ノアすさみのプロジェクトは、今では小笠原の母島、徳島県牟岐、島根県隠岐、山口県萩にも展開され、同じ方式で、漁協がダイビング会社を設立し、ダイバーたちと漁協・漁師・市民がタッグを組んで取り組んでいる。



“つながり力”発揮事例2
寒冷地の「不」・「負」・「普」を「富」に転換した
北海道帯広市/北の屋台 氷点下20度の賑わい


次に紹介した事例は、北海道帯広市の『北の屋台』。増田氏は、会場に声をかけた。
「帯広に行ったことがある人? 札幌は?」

後者は多かったが、帯広は少ない。北海道観光の重要スポットからいかに外れているかがわかる。だが、氷点下20度にもなる厳寒の地・帯広に、年間20万人もが訪れる18軒の屋台村があるという。

 

「あまりにも自分の故郷が寂れている、なんとかしたい。そういう3人組が考えて行き着いたのが屋台でした。場所はビルとビルの隙間の狭小地、元駐車場です。駐車場をそのまま運営していたら、たいした収入にはなりませんが、そこが今や、年間20万人です。屋台というのは交流が生まれますよね。人が来ると、市場もできます。人が集まるところに商業が生まれ、自治が生まれます。屋台も町づくりも同じなのです。観光客も来るけれど、地域の経済も回っていきます」

この『北の屋台』のスタートもまた、よそ者の目だという。40歳を超えてUターンした3人が、故郷の衰退ぶりに我慢できず、何かやろうと始めたのが屋台だった。ずっと帯広に暮らす人からは出ない発想だろうと増田氏は語った。

その3人組。ひとりが、寒い中でやろうと言い出し、ふたり目は本当にできるか、寒くはないか実験を繰り返した。その実験風景を面白そうだと十勝毎日新聞が記事にし、その記事を見て面白そうだと北海道新聞が記事にし、それを面白そうだと見るのがNHK。さらに、それを観たのが中小企業庁。国で応援しようとなった。これは、3人組が計算してのことという。そして3人目は、屋台のオーナーたちを叱咤激励する、動かす役。タイプが違う人が組み合わさって生まれた“つながり力”で、この事業が実現したのだ。

 



“つながり力”発揮事例3
離島の「不」・「負」・「普」を「富」に転換した
山口県周防大島町/ジャムと伝統農業のコラボレーション


 

3つ目の事例は、淡路島に次いで瀬戸内海で2番目に大きな島・周防大島(すおうおおしま)にある手づくりジャム専門店「瀬戸内Jam’sGarden」。この島は、山口県産みかんの80%を生産するみかんの島。ここでジャム専門店を経営している松嶋匡史氏は、名古屋市出身で元電力会社に勤務。さきのすさみの松田氏と同じく、奥さまの故郷がこの周防大島だ。

そもそもなぜ、松嶋氏はこの島で開業したのか。始まりは、新婚旅行でパリに訪れた時。素敵なコンフィチュール(フランス語でジャムのこと)専門店に魅せられ、その新婚旅行中に「会社を辞めてジャム屋になる!」と言い出したのだ。エリートサラリーマンと結婚した奥さまはびっくり。実家の父親に相談する。一緒になって反対してくれると見込んでいたのだが、まったく逆の方向に。というのも奥さまの父親は住職で、跡取りがほしい。娘に帰って来てもらいたい、敷地を出してやるから島で開業したらいいと勧めたのだった。

「松嶋さんは、『え?島で?』と正直思ったそうですが、この島でやるならば、この島のものだけを使ってやろうと決意したのです。そこから松嶋さんの頑張りはすごかったのです」と、増田氏は様々なエピソードを披露した。

そして今朝の大阪朝日放送の番組「LIFE〜夢のカタチ〜」で紹介された三鬼恵寿氏の取り組みにも触れた。「この周防大島はみかんの島ですが、みかんは甘いので、ジャムの代表格であるマーマレード独特の苦みが出ませんでした。困った松嶋さんは、思い付くのです。収穫前の早い段階の青いみかんを使ったことで、苦みもある美味しいみかんのジャムができました。今朝のテレビを見た方、その話が出ていましたよね? 私はびっくりしました。この松嶋さんの話をしようと思ったら、同じ話でしたから。三鬼さんは、青いみかんの苦みと格闘していましたが、この松嶋さんは反対に苦みを求めてと格闘したのです」

 

摘果みかんを活用して農家に喜ばれている三鬼氏と同様に、青いみかんを活用した松嶋氏もまた、島の農家に大変喜ばれているという。農薬散布の手間もコストも減らせ、台風シーズン前に収穫でき、安定的に買い取ってくれるのだから、当然やりがいも生まれる。また松嶋氏は、島のもうひとつの特産であるサツマイモも、どうにかジャム化しようと奮闘した。ジャム特有のなめらかさが出せず苦戦するが、妙案で解決したという。それは、先にパンに塗ってから焼くという逆転の発想だ。

さらに、世界一美味しいと言われながらも売れずに島で放置されていた果実・フェイジョアンも製品化した。これは20年前に、島の農家が農業研修で海外へ行き、そこから持ち帰り、栽培していたもの。「世界一美味しい」と言われながらも、売れなかったのだという。なぜかというと、皮が非常に堅くむきにくいのだ。フルーツというのは、美味しさとは別に、むきやすさ、食べやすさも重要な購買ポイントだと増田氏は語った。例えば、みかんやバナナは皮がむきやすい、柿だとやや面倒くさい。美味しいがむきにくく、売れずに放置されていたこのフェイジョアン。これも松嶋氏は解決した。業務用の皮むき機ならば容易じゃないか!

「松嶋さんは、もと会社員です。農家でも食品業者でもない、電力会社勤務でした。今では年間60種類ほどの旬のジャムをつくっています。日本中からがわざわざ島へ買いに訪れるほど人がいるほどの人気のお店です。この島には橋が架かっています。ですがストロー減少で、発展のために架けた橋が逆効果となり、島の住民は減って過疎化しています。でも、人が出ていってしまったけれども、素敵なジャム屋さんに買い物に行こうと観光客は増えているのです。余っている土地、行き場を失っていた果物が、松嶋さんのところでは大いに活用されています。それだけでなく、これ、なんだか、わかりますか?」

プロジェクターに映し出されているのは、住宅サイズの建物の写真。

「また水族館です(笑)。ここは、『日本一小さな水族館』です。小さくても、一番は一番です。一番と聞くと、行きたくなりますよね?」と、増田氏はこの町立なぎさ水族館での楽しい体験段を披露し、水族館の指定管理を務めている大野圭司氏について紹介した。大野氏は土木建築会社の3代目。前述した松嶋氏を応援したり、島の名物を考案したりするなど、地域のために様々な取り組みに尽力している。


「以上、北海道、和歌山、山口県の事例を紹介しました。
ダメだと思われている資源を使いながら、いろいろ違う立場、経験の人たちが、立場を変えて視点を変えて組み合わさって、資源を生かした経済をつくっています。和歌山に屋台街はありますか? ないですよね。帯広にも、もとはありませんでした。資料にない事例をもうひとつ」と、道路交通法をクリアした呉市のアイデア屋台も紹介した。

 

そして、和歌山気質と言われる“質素倹約”について、増田氏は祖父母から贈られた言葉も紹介しながら講演の最後をこう締めくくった。

「昨年の台風12号で和歌山は甚大な被害を受けましたが、ほとんどが山林という和歌山は、いつも台風が大雨をもたらします。畑や工場を誘致する平野部が少ない。そんな厳しい環境で、ものを大事にする質素倹約な気質が育まれてきました。ポリ袋さえもとっておくような、後で使い途を考える、質素倹約です。決して豊かではない資源を、与えられた条件の中で創意工夫することは紀州人の誇るべき特質だと思っています。それを眠らせてはいけない。厳しい時代ですが、たくさんのことを発露して、アイデアをつくって、創意工夫していく紀州魂を、もう一度復権させていきましょう。紀伊國屋文左衛門、山葉寅楠、松下幸之助、白浜を一大リゾートにした小竹岩楠(しのいわぐす)、そういう先人たちもいます。この後、頭脳交換を行います。大いに創意工夫の魂を発揮して、この和歌山で21世紀を切り拓けるようなアイデアを出していきましょう」


「第15回NICe全国定例会in和歌山」全編レポートはこちら
http://www.nice.or.jp/archives/12008

「第15回NICe全国定例会in和歌山」第2部 頭脳交換会レポートはこちら
http://www.nice.or.jp/archives/12248

UST配信/目次哲也氏、協力/横山岳史氏
撮影/北出佳和氏
取材・文、撮影/岡部 恵

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